2011/05/22

ホンマタカシ "New Documentary"

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この展示だけでも驚くべき仕事の幅。それでいて揺るぎない作家性というべきかホンマタカシの背骨というか、全ての視点を中心で結ぶ強い軸が見える。いくつかの作品は10年ものスパンで集成されているのに、被写体も描写も全く異なるのに、どうしてこんなにぶれないのだろう。

週に1回カメラを持ち出すかどうかとはいえ、自分で写真を撮ってみている今、そういったことを本当に不思議に感じる。写真を撮るとき、そのとき目の前にある被写体に、あまりにも偶発的に写真を左右されている気がする。だからそれを"自分の作品"と呼ぶ気にはあまりなれない。
僕の場合は世に向けて発信するためという気概を強く持っていないし、テーマを設定して臨んでいるわけではないし、多くプールした中から抽出しているわけでもないのだから当たり前のこと? 趣味とは違う? でも、それだけとはどうも思えないのです。プロの作品だって、いわゆる期待される「作風」で制作を続ける場合を除けば、テーマの変遷とともに作家の立ち位置が変わっていくことが多いように感じる。

写真というメディアの見た目上の硬質な「確かさ」の中には、表現という意識的な行為が入り込む余地がもともと少ないのかもしれない。「表現されたもの」に対してシャッターを切ることはできても、シャッターを切ることそれ自体を作家の代替がきかない「表現」とするには、別の意識が必要。作家性が宿るのは、思うに、写真のもつ「確かさ」よりも「不確かさ」の方なのだろう。「不確かさ」とはつまり、印画紙の枠外に存在するはずの無限の情報だ。被写体の辿ってきた歴史、作家との関係性、時代性、鑑賞者との距離感…。
写真に内在する「不確かさ」を無理矢理にでも引きずり出し、鑑賞者を取り込んでいく。あるいは鑑賞者の側からそれをさせる。そういう強い意志をホンマタカシの展示からは感じた。

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