2011/05/28
Blogger 19:47
前のBlogから乗り換えたときになぜBloggerを選んだのだったか…たぶん凝ったテンプレートがたくさん公開されていたのと、googleのアカウントでそのまま使えたからだったと思う。
でも面白いテンプレートは大抵英語表記が前提になっていて、日本語で表示すると崩れるのが多い。そして、googleの割に便利さを感じない(使いこなせていないだけかもしれないが)。
どうしても我慢できなくなったらまた変えよう。
さて週末!
一週間が早いぜ。なすべきことをなしていないこの無力感!
しかも雨か!!!
先週届いたMy Morning Jacketの新譜は安心感に満ち溢れた1枚でした。音もリラックスしてとってもあったかい。もうちょっと刺激があっても良かった気がするけど、前作は前前作から助走をつけてそのままトンでたような感じだったから、着地として正解なのかな。なんにせよ外さない安定感がすごい。
2011/05/23
風評風評って 22:47
同じことを言っている人はたくさんいるので今更だけれど、「風評被害」という言葉に、むずむずとした歯がゆさ、違和感をずっと感じている。農家の人に罪はないし、補償されないんだから売れないと困るというのは当然。でもだからといって、「リスクは顕在化しないかもしれないが不安要素のある野菜」と、「そうではない野菜」が一緒に売っていたら、後者を購入するのを責める理由はどこにもない。ましてや安全という言葉が使われてはいても、その「安全」は「危険性を裏付けるデータが揃っていない」程度の論理にしか支えられていない。少なくとも、本当に安心して東北関東の露地ものや牛乳、魚介類を購入できるような説明は、僕の耳に届いていない。
ましてや子どもをもつ家庭なら、可能性のレベルで判断してそれらを食卓に取り入れないことは自然だと思うし、そうしてほしいとも思う。
例えば、「ある人が毎日畑の野菜につばを吐きかけていた」ということが判明したとして、もちろん洗って食べれば健康に被害はない。それでもそれを知った人はあえてその野菜を選んで買おうという気持ちにはならないだろう。責任の所在を追求するとして、そのつばを吐いた人が責められるのが当然の流れだ。「風評被害」という言葉を使って罪を消費者の側に転嫁するのはおかしいと思う。
しかも今問題になっている放射性物質は、程度の問題こそあれ、実際に害のあるもの。「外国産より有機栽培を選ぶ」のと同じくらいの選択の自由は、あっていいはずだ。それでも買うべきというのなら、ヨウ素セシウム以外の放射性物質についてもより詳細に、より多くの品目に分けて検査するべきだし、それぞれの特徴を説明するべき。それらの基準値の高さについても納得のいく説明がなされなければならないが、散々問題になっているように、今納得できている人は少ないのではないだろうか。
これは風評ではなくて、実際に健康問題が生じようが生じまいが、「心配せざるを得ない状況を生んだ」という実害なのだと思う。はじめに書いたように、農家の人が言うのはわかる。でもメディアや政府が風評と連呼して、消費者に責任を押し付けるのは気持ち悪い。補償を小さくしたいだけ?
経済は大事だけど、人の健康の先には立たないはずだ。
我慢できなくなってつらつら書いてしまった。なんかまとまらないね。
2011/05/22
ホンマタカシ "New Documentary" 0:41
この展示だけでも驚くべき仕事の幅。それでいて揺るぎない作家性というべきかホンマタカシの背骨というか、全ての視点を中心で結ぶ強い軸が見える。いくつかの作品は10年ものスパンで集成されているのに、被写体も描写も全く異なるのに、どうしてこんなにぶれないのだろう。
週に1回カメラを持ち出すかどうかとはいえ、自分で写真を撮ってみている今、そういったことを本当に不思議に感じる。写真を撮るとき、そのとき目の前にある被写体に、あまりにも偶発的に写真を左右されている気がする。だからそれを"自分の作品"と呼ぶ気にはあまりなれない。
僕の場合は世に向けて発信するためという気概を強く持っていないし、テーマを設定して臨んでいるわけではないし、多くプールした中から抽出しているわけでもないのだから当たり前のこと? 趣味とは違う? でも、それだけとはどうも思えないのです。プロの作品だって、いわゆる期待される「作風」で制作を続ける場合を除けば、テーマの変遷とともに作家の立ち位置が変わっていくことが多いように感じる。
写真というメディアの見た目上の硬質な「確かさ」の中には、表現という意識的な行為が入り込む余地がもともと少ないのかもしれない。「表現されたもの」に対してシャッターを切ることはできても、シャッターを切ることそれ自体を作家の代替がきかない「表現」とするには、別の意識が必要。作家性が宿るのは、思うに、写真のもつ「確かさ」よりも「不確かさ」の方なのだろう。「不確かさ」とはつまり、印画紙の枠外に存在するはずの無限の情報だ。被写体の辿ってきた歴史、作家との関係性、時代性、鑑賞者との距離感…。
写真に内在する「不確かさ」を無理矢理にでも引きずり出し、鑑賞者を取り込んでいく。あるいは鑑賞者の側からそれをさせる。そういう強い意志をホンマタカシの展示からは感じた。
2011/05/19
2011/05/16
2011/05/15
ドンドコドコドコ 22:16
道には人力車が行き交い、見上げれば遙かスカイツリー。
知人の出演する太鼓のイベントを見に、しばらくの浅草まで行って参りました。
全くの前情報なしで行ったので失礼ながらこじんまりとしたのを想像していたのですが、これがすごかった…。規模は結構大きく、昼過ぎから夜8時くらいまで通しての開催。出演も代表の方が主催するワールドクラスのユニットから、老若男女の門下生、果てはやっとバチを持てるくらいの子ども達まで様々。許可ないので写真を載せられないのが残念!
和太鼓の本格的な演奏を生で聴いたことは数えるほどしかありませんが、今日のものは一番グルーヴィーで、先進的で、かっこよかった。衣装も沙村広明が描きそうな和MIXでセクシー。
太鼓という極度にシンプルな楽器にも、こんなにも奥深さがあるんだね。種類が豊富ということだけではなくて、叩く人によって響きが全く違う。込められたエネルギーの色が違う。だけど、テクニックを超越した部分でどの音も魂に響くものがあり、奏者も観衆もすぐひとつになる。それも年格好を選ばずに、みんなが。
代表の方の言葉を借りれば、これはコンサートではなく毎回が「祭」なのだということだった。いくつか前の投稿で僕が書いたことと同じ事を言っていた。自粛などといってマツリを留めてはならない。
魂の脈動で、カラダを土地と、カミとひとつにする太古からの営み。あの地震とさえも、どこか起源を一にするものであるように思う。進歩の途上で、今はそういった原初的なパワーを思い出すタイミングじゃないかな。何を亡くしても、生へ向かう力はもともと人の内に宿っているはずなんだから。
2011/05/14
2011/05/11
ノックノック 0:42
前よく遊びに来ていた猫(ニャープ)が、最近またよく現れます。
ニャーとも言わず、窓をトントンとノックしてやってくる。
何をするでもなくしばらく居て、帰っていきます。
しかしどうも…。
くつろぎすぎ…。
2011/05/09
ガイド 0:34
2011/05/07
マツリ 0:40
2011/05/05
うつわノート 0:18
もう初夏のような陽気をあびて川越駅からすたすた歩き、辿り着いたのはギャラリー「うつわノート」。使ってみたくなる素敵なうつわがたくさん!
ギャラリーそのものも、光と風が心地良く抜ける落ち着いた空間。お茶まで出していただいて、縁側で一服してしまいました。
僕は石のような何かの種のような、机のそばに置いておいたらインスピレーションが孵化しそうなちいさなオブジェを購入。
いろんな形があったんですよ。ひとつだけ持ってかえるのはなんだかかわいそうになってしまった。
川越って、蔵造りの観光的な部分や、大小の服屋、雑貨屋などなど分布していて、けっこう散歩しがいのある街なんですよ。
お昼はジャワというカレー屋さんへ。これがウマーーーい!!
男だからか自動的に大盛りで出てきて、夜まで全然腹減らないくらいパンパンになっちゃいました。
埼玉暮らしも捨てたもんじゃないです。
2011/05/02
キッズ・オールライト 0:40
3連休最後の夜は『キッズ・オールライト』鑑賞。3日間仕事と招待状づくりで追われていたので、ゆっくり過ごせてよかった。最近映画見ても特になにも書かずにそのまま忘れてしまう。この間DVDで見た『フェアリーテイル』は素敵だった。夢と現実とを秘めた少女の儚さ、家族や人の絆などなど豊かで愛のある作品。
今日の『キッズ・オールライト』もなかなか。レズビアンの母二人を親に持つ家庭というフックの効いた要素が当然物語の主軸かと思いきや、それは舞台の書き割りにすぎない。結婚生活、浮気、親からの自立、子離れ…。「特殊な家庭」の中に描かれるからこそ、そこに表れてくるものが普遍的な「家族」というテーマだと気付かされるのでした。
キャストの演技からシナリオまで、ほとんど粗の見えない良作と思います。刺激を求めるのではなくて、誰かとゆったり過ごす夜に合う映画。
しかし、ジュリアン・ムーアは良い年のとり方をしているなあ。